Monthly Essay オーイ! 絵と文:香泉

〜その7〜
2010年10月2日



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香泉の旅物語「ゼロの細道」

chapter-1 惑星の輝き
chapter-2 青い故郷の風
chapter-3 深海の闇より
chapter-4 親愛なる君へ
chapter-5 エヴァーラスト
chapter-6 スピリッツ


天道様、あなた様は茜色に染まりかけた空の下、家に向かって走る二人の子供の、長い長い影をご覧になったことがあるでしょうか?
もちろん子供と言っても随分前のことですが、おそらくお天道様には、半世紀にも満たない年月など瞬きほどのものかと思います。


て、二人は姉妹でした。
先を走っている身軽な方が姉で、同じ建物が続く団地の道にも迷いは無さそうです。時折後ろを気にして速度を緩めていますが、長く伸びた影に何やら苛立っているようです。
そしてその後ろからバタバタ走って来るのが妹、つまり子供の頃の私で、こちらは今にも愚図りそうな雲行きです。

んな私達姉妹を見かけ、「あら、お風呂に入ったみたいねぇ」と近所のおばさんが声をかけています。気が付けば、二人とも髪の毛が汗でぺったりです。
姉は、説明するようにおばさんに言葉を返してからまた走り出し、私の方はと言えば、はにかんだ様子でバイバイをしています。愚図りたい気分は忘れてしまったのでしょうか?
走りながら頭をポンポン叩いている表情から察するに、このオチビさんには濡れた髪が「少々得意げ」─といったところかもしれません。

うして再び姉の後ろをバタバタ走り始めた私は、ふいに何かを探すような目をしたり手のひらを鼻にくっつけたりして、今度は何やら不思議そうな顔を見せています。

はお天道様、私の手にはさっき食べた果実の匂いが残っていたのです。大きな葉っぱの前で姉がもいでくれたイチジクです。
私は、姉のするように白い液汁の漏れるヘタをつまんでは、くんにゃりとした皮を剥いて、そして果肉を口に含んでみました。でもこの柔らかすぎる、なんとも奇妙な形をした恵みへの警戒を怠ることが出来ませんでした。にゅるっと何かが出てきそうで、すんなりとは飲み込めずに、舌の上に繊維やプツプツを残してしまっていました。
なのに今、手のひらから思い出されるのは、とろりと甘く良い匂いだけでした。

ころでお天道様、いくら姉に急かされたとしても、家に帰り着けば私達はほぼ間違いなく叱られることになっていました。
母の言い付けなどどこ吹く風で、時間も遅いし衣服も汚れています。全くいくら遊びに夢中になっていたからといって、母のあのかん高い叱り声が、遊びの隙間にさえ浮上しない訳はなかったでしょう。

っともそんなことは、空に浮かぶ雲の切れ端のようなものだった気もします。ちょっとよそ見をしている間に、どの雲も形を変え居場所を変えて、自然の成り行きそのまままに、空は茜色に染まっていたはずです。
そもそも私には、なぜ母が怒るのかまるで理解していませんでした。遊んでいれば次々と楽しいことに遭遇し、それでもちゃんと家に帰ってこれて、私としてはいつだって大満足だったのです。
ただ、姉にしてみれば気が気ではなかったかもしれません。妹のお守りを任され、子供なりに「お姉さん」だったのでしょうから…。


天道様、私達姉妹が家に走って帰ることはもうさすがにありません。イチジクにしても、その辺からもいで食べられる奇妙な恵みではなくなってしまいました。この年月が、あなた様にとっていくら瞬きほどの時間だとしても、やはり全ての瞬間瞬間に、地上の者には抱えきれない移ろいが刻まれているのだと思います。
でも茜色の空を目にした時などは、子供の頃からずっと同じ帰り道を眺めていることにふと気づくこともあり、少しの間とは言え、あなた様の大きさと向き合っていたりもするのです。
ただし帰りどきを悟るとなると、お天道様の瞬きが今少し必要かと思うのですが…。

◆夕空に 影の世界があるという 子供が一人 また走り去る


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