Monthly Essay オーイ! 絵と文:香泉

〜その16〜
2013年8月16日



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香泉の旅物語「ゼロの細道」

chapter-1 惑星の輝き
chapter-2 青い故郷の風
chapter-3 深海の闇より
chapter-4 親愛なる君へ
chapter-5 エヴァーラスト
chapter-6 スピリッツ


天道様、ただ今地上は夏、そして車内の両側面を占める窓にはいかにも夏空が流れています。
あれだけお馴染みだった雨雲も、今日は綺麗に端に追いやられています。薄明るい曇り日に慣れた眼には強すぎる日差しでした。

この眩しい夏の朝、残念なことに気分が良かったのは朝のほんのひととき。今や私の入道雲はむくむくと頭をもたげ始めていました。
いえ、別に何が悪いということではないのです。切っ掛けは、ただ無性に「鬱陶しい」というだけのことだったのですから―

私にとってここはいつも通りの通勤電車でした。
世間は日曜日の上に夏休みも間近という落ち着きのない時期。皆カラフルな出で立ちに汗を湿らせ、大抵が何人かで連れ立っています。
友達、恋人同士、家族連れ…あとは趣味のサークルか何かのグループでしょうか。

車内はいつもより空いているにもかかわらず、やたらと賑やかでだらしなく、子供の奇声なども発せられています。
大人たちのしゃべり声にしても確実にワントーン以上は高く、しかも長椅子の所々は子連れの親子達に占領され、車内全体が雑然としています。
全くこの狭い箱の中に、どれだけのおしゃべりと生活感がひしめき同居していることでしょうか?

繰り返しになりますが、私にとっては平日も休日も関係のない通勤時間でした。
それなのにこの電車ときたら、何の関わりもない雑多なリビングやら談話室やらを次々に乗せ、駅から駅へと、そして都心へと向かっているのです。
こうなるともう数の原理です。むしろ違和感があるのは、すまし顔で行儀よく座っている私の方かとさえ思えてくるのでした。


然電車を降りた後も、鬱陶しさは続いていました。
駅構内はもちろんのこと、駅前の交差点を渡っても、ゆるゆるだらだら人波の行列に変わりはありません。
とにかく大した距離でもないところを、だらしなく進む人垣によって行く手は阻まれ、イライラは募るばかりでした。

通常の通勤時に比べれば、隙間はそこいら中にあるのです。けれど連れ立って歩く人たちの間には、すり抜け防止バリアでも張り巡らされているかのごとく、どうにも前に進めません。
冷静に考えれば、苛立ったからといって進めるわけでもないのですから、のんびり歩けばすむことでした。
でもなぜか一度立った気はなかなか静まりません。
眼と鼻の先にある目的地を思うだに苛立ち、目の前の背中を睨みつけては、またしても自分の行く手を見て苛立ってしまうのでした。

―と、その背中の斜め下あたりで、振り返りざま私を見上げている子供がひとり。何かを察したのでしょうか?
たぶん私が睨みつけていた背中とは親子なのでしょう。繋がれた手に引っ張られるように歩いています。
私はバツの悪さもあり、とっさにニッコリ顔で応えましたが、子供はただ上目づかいをどこかあさっての方に向けただけ。
早い話が無視でした。全く可愛くない子供です。


天道様、今から思えばこの日一日、失敗だらけで乱雑に時が過ぎてしまったのも頷けるというものです。
結局、こんな調子で入道雲はなかなかおさまらず、クタクタの帰途を迎えることになったのでした。

いつもより遅い時刻の電車はさすがに空いていました。昼食時に座ったのが最後でしたから、8時間ぶりの椅子の感触です。
全身のいたるところで、「ホ〜ッ」と息をついているような安堵感と放心状態…。
横に置かれた黒いバギーが目に入ったのは、丁度そんなタイミングでした。

黒という色のせいなのか、どことなくシェルターのようにも映るバギーでした。
こんな小さな入れ物の中から、赤ちゃんは私達一人一人を、そして世間を見聞しているのでしょうか?
なんとはなしに目の端で中を覗き見てみると、淡いピンクの着ぐるみも眩しく、本当に別世界のミニシェルターでした。
中の赤ちゃんがこちらを見ています。まさに今、私が見聞の対象なのでしょう。

何気に目で合図を送ってみると、シェルターの中の眼が輝き始めました。そこで首を傾げてみせると、今度は興味津々。
それではと、少しだけ体をずらし、こちらの顔を赤ちゃんの視界から外してみることに―、再び目が合ったときには、「おおっ!」という驚きと共に、全身で喜んでくれる赤ちゃんでした。

もちろん私達二人だけの密やかな交流でした。隣に座っているお母さんは、わが子がぐずらないよう見守ってくれています。
落ち着きを取り戻している休日の夜、朝とは違う通勤電車でした。

私の下車駅が近づいた頃、赤ちゃんは眠たげでした。
立ち上がってバイバイをする私を不思議そうに見ていましたが、お母さんに手を振らせてもらうと、満面の笑顔で両足までバタバタ、バタバタ…。
でも本当はもうお休みの時間だったはず。遊んでもらったのは私の方だったかもしれません。


り道、見上げる空は雲に覆われていました。日中の眩しさが嘘のようです。
月明かりがかろうじて透けているだけの空に星はありません。
でも雲がゆっくりゆっくり流れてゆく道々、私は久しぶりに星を間近に感じていたのでした。
もちろんあの入道雲は消えてしまいました…ええ、とりあえず。

◆道々の 雲河にキラッと 星ひとつ 見つければよし 今日のご褒美
 

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