Monthly Essay オーイ! 絵と文:香泉

〜その13〜
2012年7月10日



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香泉の旅物語「ゼロの細道」

chapter-1 惑星の輝き
chapter-2 青い故郷の風
chapter-3 深海の闇より
chapter-4 親愛なる君へ
chapter-5 エヴァーラスト
chapter-6 スピリッツ


天道様、地上ではすっかり緑の濃い季節となりました。
木々の葉も地面の草も、日々領域を広げながら密度を上げているような気がします。
パステルカラーで満たされていた春の景色など跡形も無くなって久しく、そのくせふいに春の柔らかさが蘇ったりするのですから、記憶とは不思議な感覚です。

今では、春の日のあの小さな公園には鬱陶しいほど葉が茂り、曲がり角のマグノリアにしても、大ぶりな葉が枝を隠してしまっています。
変化の大きさと素早さに圧倒される反面、全ては夢だったと言われてしまえば確かにそんな気もしてきます。
ましてや春はほんのひととき、花の香りを含んだ空気に包まれていればなおさらかもしれません。


天道様、あれは丁度穏やかなお昼時の、世間ではソメイヨシノの満開を今日か明日かと待ちわびていた頃のことでした。
春、誰もがなんとなく表へ出かけたくなるように、私もまたゆるゆると自転車を走らせていました―

住宅地もパステルカラーに彩られる季節、庭はもちろん、玄関や門の脇だったり生垣の隙間だったり、春はあちらこちらに散りばめられています。
風に漂う古風な匂いは椿なのでしょう。時折見かける道端に落ちた大輪、それは未だ色鮮やかな春のオブジェでした。


じんまりした駐車場を過ぎると、淡いヤマザクラが揺れています。
「小休止スペース」ふうの小さな公園で、静かに満開を迎えていました。

いえ、公園とは言っても中心にヤマザクラが一本、これをぐるりと囲うツツジの植え込みと、その間に置かれた木製ベンチがあるだけの、極々狭いスポットでした。
なのに貪欲に張り出したヤマザクラの枝は、屋根のように公園を覆い尽くして道にまで花影を作るほど。
春のひととき、満開になると現れる「うたかたの東屋」…そんな風情でしょうか。

ベンチで毛づくろいをしている野良猫の他に人の姿もなく、淡い花が音もなく揺れています。
ヤマザクラという木の醸し出す雰囲気は、なんとなく人を近づけさせないのかもしれません。


マザクラからすぐ先に目を移すと、丁度曲がり角の植え込みの中でみごとなマグノリアが一本、やはり満開を迎えていました。
淡桃色の大ぶりな花達は一斉に開花したのでしょう。どの花もしっかり空に向かっています。
ヤマザクラと同様、古風な趣に満ちている木ですが、原初的な力とでもいうのか、なんだか無性に引き寄せられるのです。
この木には「引力」があるのでしょうか―?

そう、そして道の中ほどで立ち止まった男の人がひとり。
パイプを片手にマグノリアを眺めています。ちょっと見にも落ち着いた雰囲気の年配者で、建設会社のブルゾンを着ています。

実はこの人は、つい今しがた、私が先の公園に差し掛かろうとしたときに向こう正面からやって来た人なのです。
近所に戸建て風マンションの建設現場があるので、そこの関係の人かもしれません。
最初は、たぶんヤマザクラを見かけて近づいたふうでした。でもすぐにマグノリアが目に入ったらしく、吸い寄せられるように曲がり角へと向かったのです。


際、一本の木にこれだけ沢山の花が群れ立つさまは圧巻でした。今にも飛び立っていきそうなマグノリアです。
近づけば、淡桃色の花弁の内側は思いがけず白く、中心から染み出た緋色が鮮やかに香っています。
しかも甘い芳香を含むその羽ばたきは、実に優雅でした。

遠目で眺めれば、陽を浴びた風船のように景色の中に浮かんでいる木でしたが―

甘く優雅なマグノリアの下、私を乗せた自転車は、決められた軌道上を滑るようにして半円を描いていました。
この瞬間、私は衛星となり曲がり角から遠ざかって行ったのです。
そして軌道のすぐ外側では、パイプをくわえた男の人が、眩しそうに花で満たされた惑星を眺めていました。


、この木の下には育ちきれなかった実が落ちています。厚みのある葉っぱも虫に食われ始めました。
緑の惑星となったマグノリアです。

あの曲がり角でふっと吸い込んだ匂い、それがパイプの煙のようでもあり、マグノリアの芳香のようでもあり、今となってはどうも判然としません。
夢か現か、それでも私は星になりました。
でもちゃんと匂いがあり、それがこの地上ならではの優しさ、肌合いというものかもしれません。

そういえばお天道様、宇宙にはマグノリアという小惑星があるそうです。この名を付けた科学者もまた、春、この木の下で星になったのでしょうか―?


◆遠目には風船となりき花の群れ あの惑星が、そう、マグノリア!
 

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