絵師たちの横顔

絵師たちの横顔
広重の近江八景
役者絵の世界
江戸の女たち
英雄豪傑の活躍
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ここでは、「金鯱亭」に登場した絵師たちのプロフィールをご紹介します。

|| 歌川国貞 || 渓斎英泉 || 歌川広重 || 歌川国芳 ||
|| 歌川貞秀 || 歌川芳虎 || 橋本周延 ||


歌川国貞
【うたがわ くにさだ】天明6年(1786)〜元治1年(1864)

歌川国貞は初代豊国の門人で、後に弘化元年(1844)師の名を継ぎ三代豊国となった。江戸生まれで姓は角田、名は庄蔵(のち肖造)。一雄斎、五渡亭、香蝶楼などと号した。また、英一珪に学んで英一蝶とも号す。豊国門下の逸材として早くから画才を認められ、役者絵、美人画、挿絵などあらゆる分野で、多大な業績を残している。特に、彼の独檀上とも言える猪首・猫背の独特な美人画は、幕末期の退廃美をよく表し、当時の浮世絵界で最も人気を集めた絵師とも言われる。

渓斎英泉
【けいさい えいせん】寛政3年(1791)〜嘉永1年(1848)

渓斎英泉は江戸で生まれ、歌川国貞と共に幕末の退廃美を表現した絵師。姓は池田、名は義信。無名翁などと号した。狩野白珪斎の門人であり、後に独立。作品は娼婦を題材にしたものが多く、文政末期に藍摺絵を始め、独自の妖艶・退廃的な美人画を創造した。また、広重との合作で「木曽街道六十九次」70枚のうち、23枚を描いている。

歌川広重
【うたがわ ひろしげ】寛政9年(1797)〜安政5年(1858)

歌川広重は、公儀定火消同心・安藤源右衛門の子として江戸に生まれ、幼名は徳太郎。初め初代豊国の門を叩くが断られ、歌川豊広に入門。一立斎と号した。美人画や役者絵を描いたが、1830年代頃より洋画の遠近透視法を応用した風景画に新境地を見出し、「東海道五十三次」(保永堂版)の成功で、一躍大流行絵師となった。「近江八景」は天保5年(1834)頃に刊行されたと伝えられる。その名は世界的にも有名。

歌川国芳
【うたがわ くによし】寛政9年(1797)〜文久元年(1861)

歌川国芳は初代豊国の門人で、江戸後期の歌川派全盛時代に大いに才能を発揮した絵師。一勇斎、朝桜楼と号した。国貞と並んで豊国門下の双璧と称され、特に揃い物の武者絵や歴史物に佳品を多く残し、「武者絵の国芳」として名声を得る。また、洋風表現を駆使した風景画、風刺画も得意とした。主な作品に「通俗水滸伝豪傑百八人之一箇」「東都名所」など。

歌川貞秀
【うたがわ さだひで】文化4年(1807)〜明治12年(1879)頃

歌川貞秀は初代国貞の門人で、幕末から明治初期かけて大きな足跡を残した。五雲亭、または玉蘭斎、玉雲斎と号した。役者絵、美人画、風景画、武者絵等、様々な作品を描いたが、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」終編の挿絵を英泉、重信とともに任されたことは有名。また、全国の名所を訪ね歩き、大作の一覧図に優れた作品を残している。

歌川芳虎
【うたがわ よしとら】?〜明治13年(1880)

歌川芳虎は国芳の門人で、俗称・永島永五郎。幕末から明治初期にわたり活躍した。一猛斎、錦朝楼と号し、武者絵、役者絵、美人画などを得意としていた。また、横浜絵や風俗画も描いている。国芳の十三回忌の際、わけあって同門から退けられた。

橋本周延
【はしもと ちかのぶ】天保9年(1838)〜大正1年(1912)

橋本周延は越後生まれで、本名・橋本直義。初め歌川国芳、後に豊原国周の門人。揚洲、一鶴斎と号した。元幕府の御家人であったため、徳川大奥の風俗を描いたシリーズ等が知られている。美人画を非常に得意とし、明治風俗画で多くの佳作を残した。代表作に36枚の揃物「真美人」、子供絵、歴史画、役者絵、などがある。